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今回はいつもとちょっと、いやかなり毛色の違う記事をお届けしよう。無駄に力作となりました。

■命名:「あだち去」

おそらく、ぼくの年代の人間はあだち充のマンガをどこかで必ず読んでいるはずだ。たとえば「タッチ」の連載は1981年〜1986年で、テレビアニメの放送は1985〜1987年が最初。ちょうど中学生のぼくもよく見ていた。

3歳離れた妹はあだち充作品が好きで、おそらくほとんどの単行本を持っているのではないかと思う。ぼくがちゃんとあだち充作品を読んだのは、大学生ぐらいの頃妹に借りた時だ。

で、先日とあるきっかけがあって、あだち充作品をあらためて読み返してみてふと気がついた。あだち充の作品には登場人物が去り際にこういうポーズとることが多い。


(あだち充『スローステップ』単行本第5巻112ページ)

この姿のことだ。後ろ姿で、片手だけを上に上げ、もう一方の腕は降ろしたままかあるいはポケットに。特に後ろポケットに入れているとあだち充度が高い。上げている手の指は描かれない(ミトンの手袋状に省略されている)

と言われてもなんのことやら、とか、そうかあ?などと思う方はそっとブラウザを閉じてください。以下このポーズの画像しか出てきませんので。「あー!わかるわかる!」という方だけ以下読み進めてみてください。
さて、同じ『スローステップ』には次の2つの同じポーズが登場する。


(単行本第3巻130ページ)


(単行本第6巻57ページ)

このようなポーズはあだち充特有の描写だと思う。ぼく自身はあまり熱心なマンガ読みではないので他の漫画家の作品と比較したうえで言ってるわけじゃないんですが。というか、そういうことにしたい。そしてぼくはこの去り際ポーズを「あだち去」と名付けた。読みは「あだちざり」だ。もちろん「充」と「去」が似ているからそう名付けたのだ。

この「あだち去」が作品の中にいかにたくさん出てくるかを見てみよう、というわけだ。なんかすでに誰かやってそうな気もするががんばって数えてみよう。

と始めてみたはいいものの『スローステップ』にはこの3例しか出てこなかった。しかも3つめの職員室のものは「去」としては微妙だ。去っているのは生徒側で手を挙げている先生は去っていないので。

さて『スローステップ』の連載は1986〜1991年。これとほぼ同時期に発表されていた『ラフ 』(1987〜1989年)を見てみよう。

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(『ラフ』第2巻45ページ)

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(『ラフ』第2巻46ページ)

すばらしい。なんと2ページに連続してあだち去。こんなに頻繁に出てくるのはこの作品だけだった。

このように、『ラフ』はかなりあだち去っている作品だ。

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(『ラフ』第3巻159ページ)

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(『ラフ』第6巻145ページ)

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(『ラフ』第7巻91ページ)

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(『ラフ』第7巻179ページ)

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(『ラフ』第8巻21ページ)

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(『ラフ』第8巻102ページ)

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(『ラフ』第10巻49ページ)

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(『ラフ』第10巻182ページ)

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(『ラフ』第12巻155ページ)

12巻で12のあだち去が確認できた。


さらに『H2』(1992〜1999年)も見てみよう。


(『H2』第2巻161ページ)


(『H2』第3巻127ページ)


(『H2』第4巻93ページ)


(『H2』第5巻160ページ)


(『H2』第7巻37ページ)


(『H2』第9巻47ページ)


(『H2』第10巻106ページ)

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(『H2』第22巻78ページ)

25-161
(『H2』第25巻161ページ)

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(『H2』第28巻37ページ)

29-133
(『H2』第29巻133ページ)

30-128
(『H2』第30巻128ページ)

30-175
(『H2』第30巻175ページ)

以上13のあだち去があった。『ラフ』とあまり変わらない数だが、『H2』は単行本にして34巻とおよそ2.8倍の量があるにもかかわらずこの数。よく見てみると11巻から21巻までの間にまったくあだち去が登場しないのが印象的だ。あだち去の大空白期である。この時期、あだち先生になにかあったのか。

ただ、後述するような意味で質は高い。質って。


■「あだち去」の意味

次は『KATSU!』(2001〜2005年)

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(『KATSU!』第2巻65ページ)

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(『KATSU!』第4巻82ページ)

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(『KATSU!』第6巻66ページ)

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(『KATSU!』第8巻129ページ)

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(『KATSU!』第10巻11ページ)

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(『KATSU!』第13巻17ページ)

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(『KATSU!』第16巻179ページ)

コンスタントにあだち去を繰り出してくるあだち先生。まるで「あだち去は2巻に1回まで」決めているかのよう。

これが、この後の作品『クロスゲーム』になると激減する。

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(『クロスゲーム』第4巻31ページ)

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(『クロスゲーム』第6巻100ページ)

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(『クロスゲーム』第9巻21ページ)

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(『クロスゲーム』第13巻89ページ)

『クロスゲーム』は全16巻なのだが、あだち去はこの4つだけ。これはこの作品には野球のシーンが多いせいだと思われる。愛読している方はよくわかると思うが、あだち去は情緒的な決めぜりふのあとに使われる場合が多い。人物の大きさもコマに対して小さめで「遠くに去っていく」ことを表現していることが多く印象的だ。上にもいくつかあるが、枠線なしでさらにその「去っていく感」を強調しているものもある。

つまり、あだち充といえども試合中の場面では野球の内容に集中するので(とはいえ、その試合運びそれ自体が恋愛関係の比喩であることはよくあるが)あだち去で強調する決めぜりふがはかれることが少ないのだ。だからプレイ中の描写が多い『クロスゲーム』にはあだち去が少ないのではないかと思う。

演出としてのあだち去についてもうちょっと解説しよう。カメラワーク的に見てもあだち去は特殊だ。去られる方の登場人物の後頭部が描かれることもあるが、多くの場合、あだち去をする人物の後ろ姿だけがある。これはつまり登場人物と読者が視線を共有しているわけで、あだち充作品ではこれはめずらしい。

あだち充はしばしば楽屋オチを使うので(締め切りを守らない自分と、怒っている編集者を描くなど)、読者は常に作品の外にいるのが前提となる。つまりストーリーテリングの構造としてはあだち充という作者とそれを受け取る読者があって、登場人物はそれとは別の物語レイヤーにいる形式だ。「あだち去」が印象的なのは、そのような構造が続いていたところで、急に読者が登場人物と視線を共有しちゃうからだ。決めぜりふを決めぜりふとしてだめ押しするとても効果的な方法だと思う。

なので下のようなものはあだち去には含めない。

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(『KATSU!』第14巻26ページ)

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(『KATSU!』第15巻125ページ)

いずれも読書が見ている登場人物同士のあいさつのしぐさであって、読者と視線を共有するカメラのこちら側の登場人物に向けられたものではないからだ。

あだち去に負けず劣らずよく出てくる、下のような指さしポーズもあるが

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(『H2』第10巻16ページ)

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(『H2』第29巻21ページ)

これもカメラワーク的に似ているが、よく見ると視線はカメラに写っていない別の登場人物に向いている。だからこの場合は読者は物語レイヤーの外にいることが明示されるので、あだち去とは印象が異なる。現にこれは「手癖」というべきもので、とくに印象的なシーンで使われるものでもない。

短編集『ショート・プログラム』にはお手本のようなあだち去が登場する。あだち充一流のドラマが凝縮されているので、あだち去やすいのだろう。

ショートプログラム02_225「ゆく春」
(『ショート・プログラム2』「ゆく春」225ページ)

ショートプログラム036「近況」
(『ショート・プログラム1』「近況」36ページ)



■「あだち去」から見る『タッチ』の名作っぷり

さて、だいたい年代順に見てきたが、肝心の『タッチ』はどうした、とお思いだろう。ちょっとしたおもしろ小ネタぐらいの気持ちで集めたこれらの描写だったのだが、「あだち去」からあらためて『タッチ』の名作っぷりが見えてきてしまったのだ。

まずそもそもあだち去が完成されたのが他ならぬ『タッチ』においてであった。この前作『みゆき』を見てみよう。

『みゆき』において、去り際に手を挙げるポーズはたくさんでてくる。が、その全てが下のようなものだ。

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(『みゆき』第2巻14ページ)

むろんこれは「あだち去」とは呼べない。

また、形式としてはかなり近い下のようなものもあるが

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(『みゆき』第6巻8ページ)

これはみゆきの向こう側に見えるクラスメートに手を振っているのであって、これも「あだち去」ではない。

そしてぼくの知る限り「あだち去」の初出はこれだ。

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(『みゆき』第9巻87ページ)

初出、といっても『ハートのA』(1975年)とか『ナイン』(1978〜1980年)は見ていないので確かではないですが。ちなみに『陽あたり良好!』(1980〜1981年)は確かめたけどあだち去はひとつもなかった。

ただ、上のあだち去は取り立てて印象的なセリフの後に使われているものではない。あだち去マニアとしてはこれをあだち去と認めるかどうか大いに異論があるだろう。

で、『タッチ』だ。『みゆき』とほぼ同時期に発表されたこの作品においても、最初のうちは単に去り際のポーズだった。ただ、このポーズが癖のひとつとして定着していく様子がよく分かる。

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(『タッチ』第9巻84ページ)

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(『タッチ』第17巻125ページ)

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(『タッチ』第17巻185ページ)

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(『タッチ』第19巻179ページ)

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(『タッチ』第20巻160ページ)

このように、ぽーずは確かにあだち去なのだが、単に去っている描写なだけだ。「印象的な決めぜりふと共に使われる」という意味でのあだち去の最初は以下だ。

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(『タッチ』第20巻180ページ)

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(『タッチ』第22巻87ページ)

まさか(って、なにが「まさか」なんだか分かりませんが)西村が「あだち去」の最初だとは思わなかった。特に下は恋と野球とに破れた彼が吐く言葉とセットだ。ただ、カメラワーク的には前述のような読者と視線を共有するものではない(どちらも後頭部が描かれている)。

さあ、ポーズ、印象的なセリフ、カメラワーク、この3つが揃った正真正銘の「あだち去」の最初はなにかというと、これだ。

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(『タッチ』第23巻58ページ)

『タッチ』を読んだことのある方ならおわかりだろう。描かれた最後の試合だ。あの監督とのあのやりとりだ。あそこで始めて最初の完璧な「あだち去」が描かれたのだった。『タッチ』のハイライトと言うべきこの試合は、単行本にして22巻の半ばから25巻の頭にまでわたって描かれるのだが、他にも2つあだち去がこの試合中にでてくる。

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(『タッチ』第24巻120ページ)

これは帽子を持っているが、これは誰がなんと言おうとあだち去と認定したい。誰も何とも言わないと思いますが。

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(『タッチ』第24巻128ページ)

描写としては、監督はベンチに座っているのでそれより後ろにカメラを設定しづらい(つまり空間が狭いので監督の後頭部をかけない)という制約が理由なだけかも知れない。そうだとしても、そのことが先ほどから言っているような「物語構造の破れ」によって印象を高めるという手法のきっかけになったのだとしたらおもしろい。

さっき「試合中なのであだち去が発揮されるようなシーンが登場しない」と描いたが、試合中であるにもかかわらずあだち去がいくつも登場することから『タッチ』がいかに名作であるかを再認識した次第だ。そんなことで再認識するなってはなしですが。

たぶん『タッチ』を読み返したのは20年以上ぶりぐらいなんだけど、当時は分からなかったことにいろいろ気がついた。そしておそらくいまだ『タッチ』こそがあだち充の最高傑作であると思った。言うまでもなく監督は達也の暗黒面を象徴していて、これらあだち去と共になされる会話は、ふたりの共通した困難を乗り越えていくためのいわば弁証法的やりとりなのだ。弁証法つったかいま、ぼく。

うまく表現できないのでよく知りもしない「弁証法」なんて言葉を口走ったが、深読みすると面白いのは、最終的には、ふたりともそれぞれこの試合を通して成長していくわけだが、子どもである達也に未来がなく(つまり弟はもう死んでいる)、大人である監督の方には未来がある、という逆転だ。ちなみに、あだち充はお兄さんを亡くしている。

ともあれ、このような大テーマを監督と選手という関係に当てはめることで、試合の流れと共にその最中に語らせるというストーリー運びの上手さにあらためてびっくりした。思うにこれに匹敵する作品は『タッチ』以降まだあだち充自身描いていないように思う。「あだち去」の完成にはそういう『タッチ』の偉大さが表現されているのだ。たぶん。きっと。
 
 
*追記: wacott さんによる指摘で判明したのですが、なんとアニメ版のタッチでは、なんと和也の最後の姿が「あだち去」だったとのこと!

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↑これ!『タッチ』テレビシリーズ Blu-ray BOX サイトより(©あだち充/小学館・東宝・ADK)

ちなみに原作マンガではこの場面でこのカットはありません。